グルーヴを死なせない

幼い頃、僕はピアノを習っていました。母がピアノが上手く、よく家のピアノで『トルコ行進曲』や『幻想即興曲』を弾いていました。母のお気に入りだったようです。家ではそんな母から直接指導を受けながら、隣町のピアノ教室に通っていました。

 

母の指導がストイックで厳しかったせいか、教室の中では僕はいつもセンター的なポジションを与えられていました。発表会では中央のグランドピアノで毎回先生と連弾したり。絶対音感も自然と身につき、耳コピで即興で当時流行っていた曲を弾けたり。幼かった頃の自慢です。

 

しかし、僕はピアノを好きだと思えたことはただの一度もありませんでした。というか嫌で嫌で仕方なかった(笑)なぜなら、譜面に書かれたリズムや強弱に忠実に従って弾くことに、常に疑問を感じていたからです。(ピアノや音楽を否定するものでは決してありません。僕の場合のお話です。)

 

例えば、僕は弾いている最中に気持ちがノってくると、段々と速く弾く癖がありました。つまり譜面で定められたリズムを守れなかった。そうすると母がメトロノーム(設定したリズムを刻む機械。リズム矯正器具)を用意し、一定のリズムを守らせようとしてくる。これが本当に苦痛でした。手枷足枷を付けられたようなあの感覚。「せっかく気持ちがノってきているのに、音になぜそれを乗せてはいけないんだ?気持ちがノってきているのに、なぜリズムは一定のままでいいんだ?」と疑問を感じていたからです。毎晩の練習の度に母とは険悪ムードになり、喧嘩が絶えませんでした(笑)

 

今当時を振り返ると、確かな技術、つまり音楽理論に則り、譜面通りに忠実に音を出す技術という意味においては、僕の技量は年齢を考慮しても未熟だったと思います。しかし、グルーヴを死なせない、グルーヴを生み出すという意味においては、やはり僕は間違っていなかったと思います。

 

機械のように正確に、忠実に何かを再現する技術。一方で、心の声に従い、例え理論や規則に反していたとしても、それを音に乗せて表現しようとする気持ち。この二つはもちろん二者択一ではありません。しかし、どちらが幼かった当時の自分にとって大切だったのかと改めて考えると…議論の分かれるところだと思いますが、僕はやはり後者だと断言できます。

 

続く

 

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