種火

前回の続きです。

 

▼前回のエントリー

グルーヴを死なせない

 

「正しい技術」か、「心の声に従った表現」か。

 

僕が習っていたピアノを例に考えると、“発表会で良い成績を収める”、“ピアノで進学する”、“ピアノの先生になる”、“ピアノで食べていく”。そうした数年から数十年単位の中期的な目的を重視するならば、教科書的な“正しい技術”をしっかりと身につけることは最も重要なことの一つだったのでしょう。

 

しかし、もっともっと長い視点で一生を捉え、「自分にとっての豊かな一生を生き抜く」という最大の目的を考えるとどうでしょうか。セオリーに反してでも自分の心の声に従うこと、そして心の声を表現することを幼少期に養い育むことのほうが、指を動かす技術よりもはるかに大切だったのだと僕は思います。 

 

 

 

 

メディアを眺めていると、日々、華々しい活躍をしている人達の情報が流れています。そうした人達の多くは、幼少期から取り組んでいたことが花開き、今に至るのだと紹介されます(スポーツや文化活動は特に分かりやすい例でしょう)。早ければ1〜2歳の頃から、遅くとも10代後半には始めたものが、その人をその人たらしめているものにまでなっていると。

 

そうしたストーリーはとても素晴らしいし、否定するところは1ミリたりともない。また、そうした人達を目にする子供達にとっては、自分の将来を思い描くロールモデルとなることでしょう。

 

しかし現実に冷静に目を向けると、こうしたサクセスストーリーばかりが過度に浸透してしまうのは、危険を孕んでいると僕は感じます。なぜなら、幼少期から始めたものを成人して以降も続け、それを一生の生業とすることができる人は、ほんの一握りだからです。割合で言えば1%くらいでしょうか。もっと低いかもしれません。(だから現実を見て夢を諦めろとかそういう話ではありません)

 

世の中の大多数の人は、99%以上の人は、子供の頃に思い描いた自分とは異なる人生を歩んでいるはずです。僕もその99%の中の1人です。そして自分のライフワークとして一生情熱を注ぎたいと思えるものに出会うタイミングも人それぞれでしょう。早ければ20代の終わりの頃に転機が訪れる人もいれば、4・50代の時にという人もいるでしょう。引退した後という人も少なくないはずです。死期が間近に迫ったころからという人もいることでしょう。

 

自分が本当にやりたいと思えることに出会う時期は人それぞれ異なる。そして大多数の人にとっては、それは成人して以降になる。具体的にいつなのかは運の要素もかなり高く、自分ではコントロールできないことが多い。

 

感受性が豊かな幼少期に何を育むべきか。こうした現実を冷静になって捉えれば、目先の技術よりも、「何かをやってみたい」、「自分はこうしてみたい」と思う心を、感情を養うことのほうがはるかに大切だと僕は思います。例え理論や規則に反していたとしても。

 

もしそうした心や感情を持つことができれば、例え「向いてない」「面白いと思えない」「続けられない」と何かを辞めてしまったり、挫折したりしても、また別の何かに取り組み続ける中で、これだと思えるものにいつかはきっと出会えることでしょう。そしてその中で、自分らしさをきっと見出し、自分だけのグルーヴを生み出すことができるようになるでしょう。

 

逆に、心や感情を置き去りにしたまま、目先の技術の習得ばかりに目を向けてしまうと、もし何らかの理由で辞めたり諦めざるを得なくなったとき、路頭に迷ってしまう。それまでとは異なる別の何かに自分を見出すことが困難になってしまう。「何かをやってみたい」、「自分はこうしてみたい」という感情無しに技術ばかりを重視するのは、僕はギャンブルに近い(悪い意味で)と感じています。幼少期ならばなおさらに。

 

 

 

 

幼いころに習っていたピアノ。

 

楽譜の通りに忠実に弾くことを求められ、そこに窮屈さを感じていた僕は、最後まで楽しむことができずに辞めてしまいました。しかし、もし母や先生が、「まあ、正しくはないけど、そんな弾き方もありだよね」と僕の勝手な弾き方を笑って見守っていてくれたら状況は違っていたかもしれません。発表会で良い成績を収めることはできなかったとしても、ピアノを、楽器を、そして音楽を文字通り楽しみ、好きになることができたかもしれません。そしてもし好きになれていたとしたら、続ける過程でやがては自分の技術の無さを自ら思い知り、自らの意志で技術の向上に励むようになったかもしれません。「好き勝手に弾いているだけじゃダメだ。ちゃんとした技術を、基礎を、土台をしっかり身に付けないとダメだ」。そう自ら悟り、自らの意思で誰に言われなくても鍵盤と向き合うことができたかもしれません。仮定の話ばかりですけどね(笑)

 

その後も色々なものに取り組み、辞め、取り組み、辞めを繰り返してきました。文字だけで書くと落ち着きなくフラついているような印象に見えますが、一つ一つのことには数年単位で取り組み、取り組んでいる最中はどれももちろん全力でした。

 

そして出会った写真。ピアノと同じように、始めのうちはほとんど技術の研究をしないまま、ただただ撮りたいように撮る毎日でした。しかし、自分が真に表現したいものが次第に分かってくるにつれ、技術の無さが大きな壁となって目の前に立ちふさがるようになりました。技術の研究に励む日々が始まったのはそこからでした。カメラの操作や現像の方法を学ぶだけでは自分の理想に足りず、ダ・ヴィンチの作品を勉強したり、人間の視覚について勉強したりもしました。

 

誰に指示されたわけでもなく、誰に期待されたわけでもなく、ただただ自分の意思で自分だけの表現を追求し続けることができているのは、「何かをやってみたい」、「自分はこうしてみたい」という気持ちを殊の外大切にしてきたからだと思います。技術は後からいくらでも身につけられるものなので、あまり重要ではありません。

 

 

 

日々活動していると、少なくない方から、「自分が何をやりたいのか分からない」、「学校では勉強を頑張り、仕事でもそれなりの成果を出してきたけど、「何をやりたいの?」と聞かれると答えに窮してしまう」という相談を受けます。

 

そんな時僕は、「ほんの少しでも何かをやってみたいと思えた瞬間を大切にする」ということを伝えています。そうした瞬間というのは、心に小さな小さな、ちょっとの風が吹くだけで一瞬で消えてしまう種火が灯ったような瞬間です。自分の心の声に正直でいないと、種火が生まれたことに自分でも気付きません。あるいは、他人からの評価を気にしがちな人は、せっかく灯った種火を自らの息で吹き消してしまうことも少なくありません。しかし、種火が灯る瞬間というのは滅多に無く、とても尊い瞬間です。灯るかどうかは運の要素も相当に強い。だから、ちょっとでも「やってみようかな」と思えた瞬間が訪れたなら、自分の今のスキルのレベルなど気にせず、他人からどう見られるかなども一切気にせず、灯った種火を手のひらで包み込むように大切にする。こうしたことが自然とできるようになれば、誰しもが、いつか必ずその人をその人たらしめる何かと出会うことができると僕は信じています。(時間はかかるかもしれないけどね。)

 

そしてもし種火が長く灯り続けたならば、そこから技術の習得に励めばいい。もし途中で消えてしまったら、焦らずまた次に灯った瞬間を大切にすればいい。

 

技術は後からいくらでも身につけられる。人から教わることだってできる。でも、「何かをやってみたい」という心は、感情は一朝一夕では身につけられない。人から教わることもできないし、人に教えることもできない。本を読んで身につけられるものでもない。他の誰でもない自分の中で時間をかけて育てるしかないもの。だからこそ、目先の技術よりも、心を声に従うことのほうがはるかに大切で尊いもの。僕はそう考えます。

 

 

 

 

2017年もいよいよ年の瀬。

新しい作品をお届けすべく慌ただしい毎日です。

どうぞ皆さまも体調にはくれぐれもお気をつけて。

 

 

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